対談)金相秀&ユ・ジョンア (元KBS9時のニュース進行、映像作家)
人間と社会、そして生
金相秀、8年ぶりに再び演劇という場に戻ってきた



ユ・ジョンア
3ヶ月ぶりにお会いします。昨年は本当にお忙しかったでしょう?休む もなく、またおしごとなさってるんですね。昨年の新たな芸術の年で、先生が企画、演出なさった総括行事〈月印千江之曲〉が素晴らしかったという評価を聞い て、私もとても嬉しく思いました。

キム・サンス
昨年の新たな芸術の年の総括行事〈月印千江之曲〉プロジェクトの中 ユ・ジョンア 氏が「韓国社会の文化風景」で参加し、その後、あちらこちらから製作依頼がきていると聞きましたが?

ユ・ジョンア
多くはないですよ。最近、i-TV(仁川放送)から依頼を受けて、仕事をさせて頂いたんですが、能力的な問題もありますし、時間もかかり、映像の仕事をするというのは、投資する時間に値するほど私にとって適切なジャンルの仕事なのだろうかとも考えています。でも、昨年の夏、先生の勧めで〈月印千江之曲〉に「韓国社会の文化風景」で参加し、私自身に対しある可能性を考えることができました。このような機会を与えていただいたことを本当に感謝しております。

キム・サンス
ユ・ジョンア氏が、シナリオや構成、あるいは映像に特別な関心をもっていたのを知ってましたよ。

ユ・ジョンア
世界を客観的に理解するとでもいいましょうか、あるいは世界の姿を見つめる方法としての映像、イメージ作業は魅力的だと思います。この部分から演劇、映像、イメージの仕事の周辺の話をはじめられると思うのですが。もちろん、厳密にいえば、違う属性をもつジャンルでしょうが。特に、今回の「島」はこのようなイメージ的な要素が私たちを圧倒すると思います。

キム・サンス
映像は時間と空間の制約から比較的自由で拡張的です。しかし演劇は限定的であり、制約された物質的な現場の時間と空間が一次的な材料です。その次に想像力という次元で制約される時空間を心理的、心情的な時間、空間へと延長していくとでもいいましょうか。これが演劇の特徴といえるでしょう。このような意味で俳優の台詞もやはり時間と空間のイメージ的な拡張だといえます。台詞の意味や内容、あるいはそれを伝える俳優の声と響きもイメージの延長上にあります。この部分が舞台に見える視覚的なイメージ、そして想像力につながり、そのイメージ的な要素が互いに出会うということです。詩的であるという演劇の属性もイメージの拡張といえます。演劇〈島〉がイメージ的であるという意味は、想像力の経験が視聴覚的でありながらも、台詞あるいは映像的な想像力が可能だというところからきているものです。

ユ・ジョンア
戯曲、シナリオ、文筆、美術、映像の演出など、先生は媒体とジャンルを自由に選択してお仕事をなさっておられますが、包括的にはイメージのお仕事をなさっていらっしゃるいっていいですね。視聴覚的なすべての要素を、その対象とするお仕事だということです。

キム・サンス
媒体やジャンルを区分で表現の問題で抑圧的になる理由はないと思います。何をどのような方法で語るのか、その語りの芸術的な方法は妥当なのか、このような問いの前で、いつも開かれていなければならないと私は思っています。演劇だ、映画だ、美術だ、このような区分が問題なのではなく、しようとしている語りの芸術的な表現と美学的な洗練が重要だということです。

ユ・ジョンア
93年、芸術の殿堂の自由小劇場で公演なさった〈ジャジャン麺〉以降、8年ぶりに演劇のお仕事を再び始められたわけですが、演劇を頻繁になさらない大きな理由がおありですか?

キム・サンス
演劇を頻繁にやらないというのは、財政的な理由が一番大きいでしょうね。演劇をやりながら、一度も作品にだけ専念できたことがありません。いつも製作費を作るという問題で苦労しなければなりませんでした。今もそうです。「貧しい演劇」という演劇の属性もありますが、このような本質的な次元ではなく、現実的に演劇をやるにあたり、最低限の財政的負担が私個人には深刻だということです。だから、私は公共財源を使用する国立劇場や、私立劇団などの役割が大切だと思っています。何よりもいい作品を作らなければならないという責任が彼らには最優先です。

ユ・ジョンア
この演劇〈島〉も国立劇場と先生の共同主催ですが、やはり財政的な圧迫がおありのようですね。

キム・サンス
劇場施設などのハードウェアーは国立劇場が責任をもち、作品製作にかかる費用は私が全面的に責任を持つことにしました。チケット収入の一定比率でそれを分けることにもしました。この程度の小さな規模の演劇でさえ、何千万ウォンかかりますから、いろいろと苦労も多いですよ。

ユ・ジョンア
作品を書き、演出するだけでもお忙しいのに、財政的な心配までなさっていらっしゃれと、作品を作りにあたり集中力が落ちますね。

キム・サンス
本当に不幸でしょう。たった一度でも作品にだけ集中できる、そういう境遇ななれたなら、どんなにいいか。なぜ、私にはそうゆう機会が来ないんでしょうね。作品にだけ集中できたなら、もっといい作品を作れると思いませんか。自ら不幸だと思うことはないが、もどかしい。今年からは劇作と演出にだけ没頭できる、そんな時間もあるだろうと思っています。

ユ・ジョンア
演劇の属性が、先ほどお話にあったように制約的、限界的な時間、空間にあり、貧しい属性が演劇の特徴だといえると思いますが、商業的、経済的な一定の規模をもつ演劇を拡大化させることは現代社会では無理なのでしょうか?

キム・サンス
演劇は商売ではないでしょう。家内手工業的であり、職人的であり、精神的な仕事です。ただ最低限の製作経費も個人には負担であり、それを現実に準備しなければならないということです。演劇の公共性のようなものを考えると、製作費用の一定限度を社会で支出する問題が積極的に話され、実現されなければならないと思います。

ユ・ジョンア
8年間、演劇をなさらずに、シナリオ全集、美術展示、文化企画などのお仕事を主になさってきましたが、これらのお仕事と演劇を作ることにはどんな関係があるのでしょうか?

キム・サンス
演劇は私がやっているどんなジャンルの仕事よりも大変です。もちろん、その大変さの大部分は先ほどお話しましたが製作費の準備です。文学評論家のチョン・カリ先生が、私が長い間演劇の仕事をせず、できず、中断していた理由を、私を紹介した文章で面白く表現しました。「人の縁と学の縁が中心の韓国社会で、誰も助ける人も、呼んでくれる職場もなく、一人で演劇を作るために古今奮闘する、韓国社会で演劇の道は冷淡な妄想と錯覚の中で埋葬される道であり、広漠とした荒野のあの終わりに向かい、徐々に消失する道とはおあつらえ向きだ。むしろ、演劇をするために社会的な条件を充足させることが急務だ」(キム・サンス 社会文化評論集「善人の憤怒」筆者紹介より)と言いました。この文化評論家の指摘は当たっています。私が韓国社会で演劇をやるというのは、まさに漠々とした現実にナイフを遊ばせるような状況だったと思います。経済的な困難がそうだったとし、演劇に対する認識さえ、演劇の対内外的に演劇がまったく自身の全体性がないということでした。10台の後半で演劇を始めたとき、もっとも驚いたのは演劇の環境や風土が徹底的に植民地的なほどまで一般化されていると感じたことです。西洋の演劇を真似、他国の作家の作品を許可なく、ただ最悪の翻訳で舞台にあげる。理解することができませんでした。そのときから、私はずっと創作劇を作り続けてきました。創作のない模倣の風土で演劇をし、互いに位置付けをするということが、私の目には限りなく幼稚で、情けなく映りました。まず私は演劇を徹底的に創作として受け入れるために努力をしました。シェイクスピアもピーター・ハントも私にはまったく重要ではありませんでした。私が生きる社会と私が生きる歴史が重要な対象であり、戯曲、音楽、声、いたってはポスター1枚までも徹底した創作の精神を含んでいなければならないという当然の思いをずっと抱えてきました。ゆえに、時間がかかり、製作を準備するために何年かに一度舞台を作るという悪戦苦闘でした。文芸会館などの公共施設に使用申請を提出すると、既得権者たちに受け入れてもらえず、文芸振興院に振興基金はきちんきちんと納めるが、そのような基金を一度も受けたことがありません。後悔はありませんが、若い青春期に非常に消耗したと感じています。より他の社会的な仕事にその多くの努力を尽くしたなら、より意味深い仕事をすることもできたのに、そう思います。今も変わらずそうですが、知性の風土、知的に認識し、理解し、批判する風土が演劇界にはありません。演劇の仕事は知的認識の体系とその対象となる仕事ではなく、創作精神を尊重する環境ではまだないということです。まず韓国演劇史からもう一度整理しなければなりません。植民地時代の演劇史の整理ももちろんですが、筆を曲げ、歪んだ批評家たちが演劇の知識人に化け、演劇を裁断している現実は今すぐ捉えられなければなりません。もちろん演劇界を意識し、演劇を作るというのではありません。しかし、後輩のことも考え、演劇環境の改善も考えるならばです。

ユ・ジョンア
先生は、〈演劇は社会の精神であり、眼である〉という表現をかなり以前から使っておいでですが、今、この言葉の意味がはっきりとわかります。実際、芸術一般が時代の精神と眼にならなければならいのではないでしょうか?

キム・サンス
〈演劇は精神と眼だ〉という初めて使ったのは、83年にドラマセンターで「191931」という演劇を公演したときからです。この作品は、歴史から私たちが私たちの全体性をどのように見るのかという問い、私たちの現代史に関する問いでした。当たり前ですが、演劇の社会的な役割や演劇の属性を考えると、演劇は当然のごとく私たちの生の現在を問うものでなければならないと思いました。芸術の時代精神をほかのどんな芸術分野より鋭く含むしかない演劇の属性が、このような表現を可能にしました。このような考えには今も変わりはありません。

ユ・ジョンア
8年ぶりの演劇のお仕事ですが、92年に公演したこの〈島〉を再び選択した理由はおありですか?

キム・サンス
〈島〉は非常に呼吸の長い台詞を主とした演劇です。時間、空間がぎりぎりで、つまっていると、表現は圧縮されなければならず、緊張が演劇の全体にみなぎります。私は最近、韓国社会の言語が壊れ、崩れ、空回りしているように思えます。国語である私たちの言葉の美しさを取り戻し、見せたいと思いました。演劇の台詞は詩的に圧縮された表現の言語でなければならないと言いたいと思います。そして何よりも、久しぶりに演劇を作りながら、この作品を選択した理由は、祭儀性を突起させたかったからです。いつ頃からか、演劇は韓国社会で娯楽の側面や余興の退屈しのぎ程度としてだけ扱われている一般的な現実から、演劇固有のジャンル的な特性と、演劇だけがもち、表現できる特有のものを普遍化できなくなってしまいました。テレビドラマや映画とは別に区分するしかない演劇的な属性があります。生きている現場の時間、空間を精神的に体験させるところに演劇があります。生きるということに対し、真摯な態度をもたなければなりません。軽さと悪ふざけが世相の様式を越え、存在の方式としてあふれています。速く、急で、うるさく、プラスティックやビニール袋のように生をひとまとめに扱われ、あるいはひとまとめに扱っています。生の意味を、本質を、深さを、私たちは演劇を通じて学びもします。私たちが演劇を作るというのは、このような態度を志向することであり、また生きることを学ぶことであり、探求することです。観客がこの〈島〉を見るというのは、私たちの生を私たちと共に振り返ろうということであり、私たちの人生をもう少し改善しようという態度です。速く、軽快で、面白いものたちが周辺にあふれています。商業的な娯楽で満ち溢れています。今、私たちは真摯で、清らかで、静的な静寂が必要なときだと思います。本当に芸術的な芸術が必要なときです。思惟の熱情が必要なときであり、霊的な価値を探し出さなければならないと思います。人間は霊魂の存在であり、〈島〉はこれを語ってくれます。

ユ・ジョンア
非常に包括的なお話です。真摯的であり、また重要なお考えだと感じます。この演劇〈島〉の主題は何だとお考えですか?

キム・サンス
人間は誰でも死にます。逆説ですが、私たちは毎日毎日死に向かっています。生きているというのはどうゆうことでしょうか?風説で生を生き、錯覚で行動し、押し付けられ理解し、新聞とテレビだけでこの世を判断し、生きるのならば、私たちの人生は非常に窮屈で浅いものです。自身の目でみ、自身が語り、自身が判断し、自身の人生を生きるというのは非常に重要な生の態度です。島は人間と人間の対話、あるいはコミュニケーションの正体を問うものです。私と他人、個体と集団の問題、人間の戦闘的で抑圧的な制度と、真正性のない人間たちの慣習がどれほど生の様式を破壊し、撹乱させているのか、どれほど生命を簡単に殺しているのか、それに比べ、自然の畏敬、生命と存在の問いを問い掛けています。

ユ・ジョンア
先生は、昨年芸術監督をなさった2000年新たな芸術の年総括行事〈月印千江之曲〉でもそうでしたが、この演劇〈島〉でも同じように「時間、生命、共同体」を重要な芸術の主題として意識なさっていると感じます。

キム・サンス
主題はほとんど一貫性をもっています。まして、新たなものはありません。ただ表現の様式とジャンルの表現で、その新しさという差はありますが、時間と生命、そして人間と人間、人間と自然が共に相生しなければならないという事実から、また共に発展的に生きなければならないという共同体の問題は、さらに重要だと思っています。人間の真実を喚起させる努力が芸術の仕事として重要だと思います。演劇は人間の状況の深いところを穿鑿するものです。政治より、よりさらに精神的だからです。

ユ・ジョンア
先生の社会文化芸術批判集「善人の憤怒」を読みましたが、中に「心の生態」という章があり、人は「いまや、再び人間の魂で、人の心で立ち上がらなければならない」という節が印象深かったです。ここでおっしゃる人の心とは何ですか?

キム・サンス
考えや思考、観念や精神などの意識的、無意識的な一連の現象を心だと語れるならば、心には考えの体系がこの世と全存在的に絡まっており、つながっており、浸透している状態を「心の生態」ともう一度表現してみましょう。心の生態は知的な面と感性的な面に分離することではありません。外部的な心と内部的な心を分離するのはさらに違います。精神と物質を分けて考えるのではなく、内在的に、複雑に動く生きている世界としてこの世を理解し、受け入れる精神的な心の態度から生命の価値は理解され始めます。実際、私たち人間の生活で発生するすべての現象は根本的に観念、あるいは心の所産です。私たちは時には永遠に生きると考え、生の真の意味に対する洞察力を忘れてしまうことがあります。欲もここから始まります。しかし人間は誰もが死に、死ぬしかない存在だということを認めるしかできません。これをちゃんと認めなければ、人間の精神は萎縮し、窮しますが、この事実そのままに気づけば、私たちの存在をそのまま把握し、生きている間に生きている人間の環境を改善しますが、努力しながら人間の創造性を引き出すことができます。これは人間精神の創造的な潜在性を認める態度です。このような心の状態が志向する価値は、一言で人間と自然のハーモニーです。演劇〈島〉の主題もここに捧げられています。科学と技術が大きな恵みをもたらしはしましたが、同時に人間に重大な誤謬と欠陥があることを認めなければならないように、もし私たちの文明で生態的なバランスを意識するのならば、私たちが生きている社会、経済全体を徹底的に検討し、私たちが身をおく反人間、反自然、反生態の問題を本質的な問題として扱わなければだめです。人間は短い人生を生きますが、人間の歴史は生態的だというほどに人間の知覚を覚醒させ続け、立ち上がれるよう刺激を与えてもくれます。

ユ・ジョンア
芸術、あるいは演劇が生に対し反省と刺激を与えてくれるとお考えなのですね。

キム・サンス
そうです。このように信じているからこそ、この大変で、つらい仕事をしているのです。この影響力や波及力は限界があることも認めます。しかし、私たちはひとりひとりに語りかけているという事実から確認することを始めます。

ユ・ジョンア
演劇が私たちの生に与える影響に対する信頼をもつことと、実際の影響力は違う次元ではありませんか?

キム・サンス
それも認めましょう。私たちの社会、いいえ韓国社会全般に広がる蔓延した不信と未曾有の無気力、裏返すと衝動的、発作的な態度、あわれで語ることもできない敵対感、難民的な、さきほど話したビニール袋のように生を扱う態度などは、その根源があります。せいの根本を、根源を問い掛ける態度が非常に少ないからです。相対的な社会的崩壊が、これを語ってくれています。このような社会で演劇は切実にその役割と機能がこと更のごとくはっきりとしています。演劇こそは、直接対面し、私たちの人生に語りかけてくれます。文明が発展し、インターネットやマルチメディアという対話の方式がありますが、人間と人間が会い、直接対面する演劇は人間に永遠であろうと思わされます。もちろん、いい演劇の場合ですが。

ユ・ジョンア
生命意識だいいましょうか。共同体意識、あるいは自然に対する畏敬のようなお言葉でしたが、そのようにお考えになる契機はいつ頃からでしたか?

キム・サンス
そうですね。おそらくかなり以前からこのように考えてはいました。今思うと、私が小学校に通っていた頃の美術の時間が思い出されます。パク・チョンヒの時代ですが、国家発展、経済発展のポスターを書かなくてはならないといいながら、ポスター書きをやったじゃないですか。工場を描き、そして煙突からのぼる黒い煙を描いたりしたじゃないですか?経済発展だと。私はその時、気まずい気分でした。こんなんじゃないと。幼くて、あいまいでしたが、体が気持ちについていかなかったことを思い出します。あの青い空に真っ黒な煙を描くということは、腹立たしく、不自由だったとことを思い出します。だから、美術の時間が退屈でした。

ユ・ジョンア
作品年表とキム・サンス 戯曲集をみると、1978年、今から23年前の初演劇作品「環」でも、〈島〉と似たような主題をお話になっていたように感じますが。

キム・サンス
78年、満18歳のときですね、でも、18歳のときも、43歳になった今も、私は別に変わったところがないという気がします。

ユ・ジョンア
変わったところがないというのは良くないことでしょうかね、いいことでしょうかね。

キム・サンス 非常に良くないことでしょう(笑い)

ユ・ジョンア
稽古のとき、俳優やスタッフに対して非常に厳しく、容赦がないと聞きましたが。

キム・サンス
それは誇張ですよ。ただ、祭祀を行うときや、礼仏、あるいはミサに参加するとき、服の埃をはらい、きちんとし、清らかな心をもたなければならないというのは基本ではありませんか?

ユ・ジョンア
俳優はどのような方法でお選びになったのですか?

キム・サンス
イメージとエネルギーを見ます。活力や熱情が重要です。でも、何よりも心を見ますね。テレビや人気などの外部的な動機だけを見るのではなく、日常を生きながら、心と体を整えられる機械を自らもとうとする意思を見るのです。

ユ・ジョンア
俳優を決める原則はありますか?

キム・サンス
礼儀を見ます。相手を配慮し、思う気持ちがあるのかを優先します。演劇は出会いの仕事であり、他人との出会いには礼儀が必要です。

ユ・ジョンア
観客が、この演劇を通して何を得ることを願いますか?

キム・サンス
演劇〈島〉を見に、国立劇場小劇場に足を踏み入れると、しばらく協会や聖堂にきたように感じ、どこか深い寺にきたようにも感じ、合掌し、祈祷する心が観客自ら感じられることを私は望んでいます。生きているということに対する感謝の心です。

ユ・ジョンア
www.kimsangsoo.comというホームページをお作りになったんですね。

キム・サンス
後輩が作ってくれました。どのように発展させていけばいいのか。ひとつのコミュニケーションになるようにしなければいけませんね。

ユ・ジョンア
これから演劇を続けてお作りになりますね?

キム・サンス
本当に多くのことを考えています。どうやって続けられるのかを、あるいはどうやって観客と出会うのかを。
(2001年1月19日 国立劇場)